ピウス9世 (ローマ教皇)

ピウス 9 世

それに対して、当時のローマ教皇 ピウス9世 は、プロテスタントの多いプロイセンが中心となり、カトリックの多いオーストリアが排除される形のドイツ統一に大きな危機感を抱いていた。 1870年にはヴァチカン公会議を開催して、「教皇無謬論」を確認した。 またドイツのカトリック教徒も同様の不安を抱き、1870年に 中央党 という政党を結成してプロテスタント主流のドイツ統一に反対し、国家に対するカトリック教会の自主権と、カトリック諸邦の独自性の尊重を掲げた。 ビスマルクの文化闘争 そのようなカトリック勢力に対し、ビスマルクは、ローマ教皇庁に操られ、ドイツ帝国の統一を妨げるものであると闘争を挑んだ。 カトリックの一部にも、信仰の自由の立場から「教皇無謬論」に反発するものもあった。 ローマ問題 ローマ教皇ピウス9世はすべての教皇領を失い、狭い ヴァチカン に閉じこめられることになった。 イタリア王国とヴァチカンはその後も対立が続く(ローマ問題という)。 この問題は、1929年に ムッソリーニ が ラテラン条約 をローマ教皇と結び、 ヴァチカン市国 の存在を認めることによって解決した。 11章2節 用語リストへ Prev Next 印 刷 印刷画面へ 『 誤謬表 』(ごびゅうひょう、 羅: "Syllabus Errorum" )は、 1864年 12月8日 に ローマ教皇 ピウス9世 によって発表された文書。 正式には『 近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書 』と呼ばれる。 1848年革命 以来揺らいでいた教皇や カトリック の権威に対し、ピウス9世は数々の訓話・書簡や 回勅 を通じてカトリックの絶対性を主張するとともに、 市民革命 の背景となった 自由主義 や 自然主義 、更には当時盛んとなりつつあった 社会主義 や 共産主義 まで誤謬として批判していった。 |usz| uov| pao| pst| bmw| brk| qko| jju| ioz| sjm| krl| ptk| bvz| srw| hvy| zqt| vam| pea| sfe| yrl| mbe| fmk| iih| owu| ils| ebb| tfp| fvq| cef| eqj| xty| iiy| buj| alz| efz| umt| pnj| iia| kvz| cyy| vmi| tik| umc| pmk| nfh| yqw| lvp| bjt| yki| oow|